東京高等裁判所 昭和56年(う)926号 判決
論旨は、検察官が予備的に追加を請求した訴因は、被告人が大型貨物自動車を運転して交通渋滞のため本件交差点出口に設けられた横断歩道の直前に停止し発進するにあたり、自車の周辺について自転車等の有無や動静等その他安全確認を十分しないまま漫然時速約二、三キロメートルで発進した過失により、自車左方にいた深沢雄一運転の自転車に気づかず、同車に自車左側部を衝突転倒させ、その右腕を左後輪で轢過し傷害を与えた、というのであつて、これでは右深沢車の進行して来た方向や態様が明らかでなく、それに対する被告人の過失行為の内容も具体的に明示されないから、訴因としての特定が極めて不十分であり、しかも弁護人の求釈明にもかかわらず原審裁判官は右の諸点について釈明権を行使して検察官に訴因を特定させる措置をとることなく右訴因の追加を許可し、またその後さらに訴因変更の手続をとらないまま審理を終え、右訴因とも異なり、前記深沢車が被告人車の左側を併進していたとする原判示の罪となるべき事実を認定し有罪の判決をしたものであつて、原審の訴因及び審判についての以上の措置は被告人に不意打を与えその防御に実質的な不利益を及ぼしたものであり、原判決には判決に影響を及ぼすことの明らかな訴訟手続の法令違反がある、というのである。
そこで原審記録によつて調査検討すると、本件起訴にかかる公訴事実についての本位的訴因は「被告人は、昭和五四年一月三一日午後四時二〇分ころ、業務として大型貨物自動車を運転し、千葉県船橋市前原西一丁目三六番八号先の交通整理の行われている交差点を習志野市方面から船橋市宮本方面に向かい進行中交通渋滞のため同交差点出口に設けられている横断歩道の直前に停止した後発進するにあたり、同交差点の対面信号機の表示に注意するとともに、自車直前の横断歩道を横断する者の有無及び動静に留意し、その安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、前者の動きに気をとられ右信号機の表示に注意せず、かつ、横断者の有無等その安全確認不十分のまま漫然時速約二、三キロメートルで発進した過失により、右横断歩道を信号に従い右から左に横断中の深沢雄一(当時七年)運転の自転車に気がつかず、同車に自車左前部を衝突転倒させたうえ、その右腕を左後輪で轢過し、よつて同人に加療約一年八か月間を要し、肩関節部より前腕中央部に至るケロイド形成等の後遺症を伴う右上腕骨骨折等の傷害を負わせたものである。」というのであるが、原審第七回公判期日において、検察官から昭和五五年一一月六日付書面に基づき訴因の予備的追加請求があり、その内容は、被告人が前記日時ころ本件交差点内の横断歩道の直前に停止した後発進するに当り、「自車の周辺を注視し、歩行者、自転車等の有無及び動静に留意し、その安全を確認して発進すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、自転車等の有無等その安全確認不十分のまま漫然時速約二、三キロメートルで発進した過失により、自車左方にいた深沢雄一(当時七年)運転の自転車に気づかず、同車に自車左側部を衝突転倒させ、その右腕を左後輪で轢過し、」同人に対し前示の傷害を負わせた、というものであり(以下「予備的訴因」という。)これに対し弁護人から、被害者の進行方向の如何により被告人の過失態様に差が出るので、被害者の方向性を明らかにされたい旨の求釈明がなされたが検察官において被害者の進行方向は左右両方向を意味するとの釈明があり、裁判所は、それ以上の釈明権を行使せず、右訴因追加には弁護人にも異議がなかつたのでこれを許可したことが明らかである。
ところで、刑訴法二五六条三項が訴因の明示を要求する所以は、裁判所に対し審判の対象を限定するとともに、被告人に対し防御の範囲を示すことを目的とするものであるから、右訴因の明示の程度は他の訴因と識別させその同一性を認識せしめる程度の具体性、特定性があれば足ると解されるが、業務上過失傷害罪の構成要件はいわゆる開かれた構成要件であつて、それ自体からは訴因として明示すべき事項が直ちに導き出されないうらみがあるものの、その行為類型に照らすと、注意義務認定の根拠となる具体的事情、注意義務の内容、それに違反する行為等について他と区別しうる程度に具体性、特定性があれば当該訴因は特定しているものと解すべきところ、これを本件の予備的訴因についてみると、被告人の注意義務は発進に当つての自車周辺の安全確認義務であり、被告人の過失行為はその安全確認不十分のため自車左側にあつた深沢車に気づかないまま自車を発進させて深沢車に衝突させたというものであつて、確かに深沢車の進行方向は一義的に明らかにされていないものの、それがいずれの方向から進行して来たにせよ、被告人が自車を発進する際には深沢車は被告人車の左側にあつたとして被告人の前示安全確認義務違反による過失を問うものであることは明らかであつて、業務上過失傷害罪の構成要件は具体的に明示されていると認められ、被告人側としてはこれに対し深沢車の進行して来た方向や運転態様を主張立証して被告人の過失の成立を争うことが可能であつて、実質的防御権の行使を妨げられることはないのであるから、右予備的訴因の特定に欠けるところはなく、従つて深沢車の進行方向等が明示特定されなかつたからといつて訴因が不特定で違法であるということはできず、もとより裁判所において検察官に対しその点を明示するよう命ずべき釈明義務を負うものではないから、検察官の請求のとおり前示予備的訴因の追加を許可した原審の措置に違法はない。